終戦記念日に憶う

          

近 藤 宏 一
 私は車塚町(現・大黒屋)で生まれた。生家の向
かい側が防府警察署、南隣が電気局(中国電力)、
その南隣にあった防府町役場は5歳の時、市制に
伴い防府市役所になった。
 市役所が現・寿町に移転した後、残った市議
会棟には一時期、商工会議所が事務局とし入居、
ロータリークラブ青年会議所の事務局も創立
時には一時期同居した。
 当時は市役所前の車塚妙見神社の下手には郵
便局・電話局・中央病院。隣接する藤本町にも
農協関連施設や三哲文庫(図書館)、宝酒造(現・
SATY)などもあり、防高・防商・三女に通学する
生徒の交通量も多く、車塚は昼間人口の多い賑
やかな官公庁街で周辺商店街も賑わっていた。
 私が生まれた昭和6年は長じて知ったことだが
満州事変が起きた年であり、松崎幼稚園から松
崎小に入学した昭和12年の七夕には支那事変(日
中戦争)が勃発している。その間、五一五事件や
二二六事件、あの松岡洋佑外相の国際連盟脱退
等もあり日本がだんだんと戦争に突き進んで行
くのである。そして小学5年生の12月には遂に大
東亜戦争(太平洋戦争)に突入。松崎小講堂で開
戦の詔勅を聞き武者震いをしたことを覚えている。
 そんな中、昭和18年に防中(防高)に入学した。
一年生と三年生、二年生と四年生が一日交替で
飛行場(北基地)建設作業に動員され土方作業を
した。とにかく腹が減って仕方がなかった。飛
行場は昭和19年4月に完成し、鹿屋・沖縄への特
攻隊中継基地となったが、わずか一年足らずで
終戦になった。
 戦争中4機編成のグラマンが鐘紡や飛行場にロ
ケット弾を打ち込むのも見たし、絹のマフラー
を首に巻いた特攻隊の南下も見た。
 当時の日本は食料不足で飛行場周辺の空き地
で大豆や小豆の栽培もしたし、なんと防府高校
の構内でケシを栽培し、竹ベラで樹液の採取作
業もした。モルヒネの原料だと教えられた。
 勝坂トンネルの向側左に不時着用の小飛行場
の急造作業にも動員された。(戦後白バイ訓練に
利用)
 終戦直前の昭和20年春からは陸−1051工場(旧・
宝酒造・現SATY)に学徒動員され航空機用燃料ア
ルコール製造に従事。空襲警報が発令されると
貞永屋敷(防高体育館)の蛸壺(防空壕)に退避。
 当時は、防高と防商のグラウンドは耕され、
サツマイモの栽培に、その後陸軍の木材置場に
変身、更に終戦時にはグァム島より飛来し豊後
水道を北上、日本を爆撃するB29爆撃機を迎え
撃つ高射砲部隊が展開していた。1万m以上を飛
ぶB29に対し日本の高射砲は8千mしか 届かず、
悔しい思いをした。
 日本は絶対に勝つと教えられるなか昭和20年8
月15日昭和天皇終戦詔勅を動員先で聞いた。
時に14歳、中学3年生だった。
 8月末にはマッカーサーが厚木飛行場にパイプ
をくわえて降り立ち、日本を骨抜きにする占領
政策が打出され、朝鮮戦争が始まる昭和25年ま
での戦後混乱第一期に入るが、昭和21年の総選
挙は評価するが、新聞や教科書の検閲、押付け
憲法の制定や教育制度改革に関わる民主化と称
する政策への弊害が、戦後62年経った現在起き
ているように思う。
 総ての混乱の責任は、日本自体の軍国主義
に起因するが、昨今起きている諸々の悪社会現
象は、戦後アメリカ主導の日本占領政策による
日本人の骨抜き政策にあるという現実を再認識
し対処しなければならないと思う昨今である。