魔球王

  
          東  佳 範
 
 私は野球が好きである。私が子どもの頃は
野球しかなく、朝のラジオ体操の時に道具を持って
行ってよくやったこともある。
 プロ野球も好きである。小学4年生の頃野球ゲームを
考案してよくやったものだ。
さいころを2個使い目の組み合わせでその打席の結果が
決まる物だ。例えば3ー4の目が出たら三振である。
乱打戦と貧打戦の2種類があった。セリーグパリーグで総当り
しての1シーズンである。5シーズン位3年間でやった気がする。
 これをやっていてよく母から怒られた記憶がある。
不思議なことに贔屓のチームが勝っていた。
賽の目はある程度は自分でコントロール出来ると思う。
 5年生の時は巨人ファンだった。そのときの担任が
贔屓のチームをクラス全員に聞いた時、私は巨人と
阪急に手を上げた。
 阪急に手を上げた者は私一人であった。
口の悪いクラスメートに本当に阪急を知っているのかと
言われた。あの頃の阪急のメンバーは衆木、山口、石井晶、
スペンサー、早瀬、ウィンディ、米田、梶本兄、石井茂、
足立と弱かったけど凄いメンバーがいた。石井茂のサイド
スローはかっこよかった。
6年の時にはすでにアンチ巨人になっていた。
昭和50年まで阪急、近鉄、ヤクルト、広島の弱小チームの
ファンだった。
 昭和50年は赤ヘルカープの初優勝であったが夏までヤクル
トを応援していた記憶がある。以来カープのファンである。
 ただ私の背番号はずっと14番、小学校のとき白い野球帽の
左側に背番号を入れるのがはやったが私は14番を入れていた。
幻の巨人軍エース沢村栄治の背番号である。私は隠れ巨人
ファンかもしれない。
 あの頃は野球マンガの全盛時代であった。
それも今と違い主人公は魔球を投げていた。
この手のマンガの走りは「くりくり投手」だったと思う。
ドロッカーブという一端落ちて曲がる球を投げていた。
以来「ちかいの魔球」「黒の秘密兵器」「巨人の星
サムライジャイアンツ」「アストロ球団」等々に続く
のである。
 高校生の時同級生のN君に「クロスファイアーって
知ってるか」と聞いたら「マンガの魔球の事じゃないか」と
言っていた。
 ところで今、花形満を主人公にした「新約 巨人の星
 花形満」を少年マガジンで連載している。
今風のジャニーズ系花形である。
 キャッチボールは良くやった。相手は父、弟、友人、
壁であった。自分で魔球を投げたいとは思わなかったが、
あらゆる変化球に挑戦したのが中学生の時だった。
その中で完全にマスターしたのが横に大きく曲がる
カーブとナックルボールである。
たてに落ちるカーブも出来たけど、サイドスローになった
ので投げられなくなった。フォークも投げたけどナックル
ほど確実に落ちてくれなかった。
どんなに良い変化球を持っていても良いストレートがなければ
ダメだと気が付いたのは随分あとのことだった。私は結構肩が
強かった。中学校の時の体育は2クラス合同だっ
たが、ソフトボール投げは3位か4位で野球部のK君と1m違い
であった。
 私のナックルは二本指を曲げ、直球を投げるイメージでスナ
ップを効かせて投げればいい。ホームベースの前でストンと落
ちる。大学の時に友人のM君にナックルを教えた。小柄だが運
動神経抜群の彼の直球はおそらく120kmを優に越していたと
思う。球が来たと思ったらミットに入っていた。その彼がナックル
をマスターし、受けている時、直球でないなと思ったとたん変化
しミットの土手に当り取れなかった。彼は卒業して会社のチー
ムに入ってピッチャーをするわけだが、残念ながらナックルの投
げ方を忘れてしまい、私が同時に教えた、たてに落ちるカーブ
で三振の山を築いたそうである。
 私は思う。我エースがこのナックルボールをマスターしたらど
んなに良いか、次期エースはサイドスローだから横に大きく曲が
るカーブがあったら良いかなと。年寄りの愚痴みたいな物であ
る。
 最後に私のピッチャーとしての生涯成績は登板数2試合、投
球回数1回1/3失点0である。なお亡くなった父に言わすと「お
まえの球は素直」であるそうだ。