(古老に聞く)……ひとつの始まり

             近藤 宏一

近藤注]故・ 白石民造パストガバナーは1910年生れ、お元気なら8月21日で満100歳だと思う。下記にご紹介する記事は平成5年9月27日、白石さんが84歳当時に書かれたもの。天満宮誕辰祭に因んでご紹介しま
す。


 古から宮市の夏を彩る祭に、天神さまの誕辰
祭がある。宮市で生れ宮市で育った者には、今
でも郷愁を誘う催事である。その誕辰祭の夜、
林立する数百本のボンボリの灯に映し出された
参拝者の顔には、千燈祭を美しい景観として受
止めている風情が感ぜられる。
 その始まりは、今から42年前の昭和27年のこ
と、天満宮の千五十年の式年大祭が、鈴木品一
宮司によって斉行された夏のことである。当時
天満宮奉賛会(会長は山本芳輔元防府市長、事務
局長は徳永鹿之助元陸軍中将昭和天皇侍従武官)
で記念行事を計画して募金運動を進めていた。
私は奉賛会の監事に指名され計画の推進にも参
画したが、私は予てから萩の大照院(毛利藩主の
墓所菩提寺)に万燈会があり、また太宰府天満宮
にも千燈祭の行事があることを承知していた。
そこで防府天満宮の千五十年式年大祭のイベン
トの一つに、千本の蝋燭を表参道石段に立てて
脚下照顧と云うことにしてはと提言した。幸い
役員会で異議なく採択されたので、その火種は
太宰府天満宮へ出向いて、ご神火を松明に移し
オープンカーにかざして持帰れば、沿道の人々
の目を引き宣伝にもなって一層意義があり効果
があると進言した。
 その結果太宰府へ出向いたのは責任役員の藤
本作一氏で千燈祭の実行委員には私と金石実市
氏が指名を受けた。初めての年は、参拝者に蝋
燭を買ってもらって表参道の58段の石段に、夜
の8時を期して数縦列に400本から500本の、はだ
か蝋燭を各自で一斎に立てて貰った。ところが
折角壮観な灯の饗宴を心ない夏の夜風に次々と
吹き消されて、再び火をつけて廻るのに右往左
往、この苦い経験から翌年からは、はだか蝋燭
はやめにしてボンボリ型の千燈祭に姿を変へた
次第である。
 一つの始り、千燈祭は思いもよらぬハプニン
グでその出鼻をくじかれたが、今では宮市の夏
の祭、誕辰祭の夜の行事としてすっかり定着し
てきた。今わがまち防府では、二十一世紀へ向
けて、着々とまちづくりが進められている。そ
のコンセプトは「歴史と未来の見えるまち」づ
くりである。
 その歴史に目を向ける人は、学問の神さま菅
原道真公を祀る天神さまのお膝元の宮市が、古
から防府の文化の発進地であったことに気付く
であろう。時世の移り変りに庶民の暮しを織込
んできた宮市の歳時記、千燈祭の生い立は今日
知る人もなし知る人ぞ知る。天神さまと宮市の
歴史の中での一つの始まりであった。
[後記]防府天満宮1075式年祭の時は、元ロータリアン故・梶山芳四郎
氏が募金委員長で「参集殿」が建設されたことも一つの思い出である。