三船殉難事件について

            原  俊 雄
 北海道利尻・礼文への旅の途中、北海道西岸
留萌でたまたま見た碑文で知った悲惨な事件に
私は衝撃を受けました。今から65年前、昭和20
年8月15日、大東亜戦争終結7日後の8月22日に起
きた事件です。
 この日、泰東丸、第二新興丸、小笠原丸の三
船は戦乱の樺太(サハリン)から緊急引揚げの老
幼婦女子乗組員5082名を乗せて波穏やかな北海
道西岸の留萌沖に差し掛かった時、突如旧ソ連
軍の潜水艦による雷砲撃を受け、瞬時にしてそ
尊い生命が海の藻屑となりました。
 まして、貨物船 泰東丸(880トン)は婦女子を
乗せ武装もしてない為、戦時国際法による白旗
を揚げていたにも拘わらず、これを無視され浮
上した国籍不明潜水艦の砲撃で沈没、乗客・乗
組員780名のうち667名が亡くなられた。
 第二新興丸は特設砲艦として宗谷海峡にて機
雷敷設に当っていた為12センチ砲二門、25ミリ
機関銃を持っており、魚雷攻撃により大破され
たものの、浮上した潜水艦二隻に応戦し損害を
与え、後で大量の油の浮上を認めた。
 L19潜水艦は礼文島沖からの通信後、行方不明
となり宗谷海峡で沈没したとされた。一方、L12
潜水艦乗組員は帰国後英雄とされた。
 小笠原丸は大泊から1500名を乗せ稚内に運
び、更に700名を乗せ小樽に運ぶ途中の8月22日
早暁、潜水艦の雷撃により撃沈された。死亡638
名、生存者61名であった。
 碑文に曰く、「留別の樺太を脱出して数刻、
夢に見た故郷を目睫にして惨禍に遭う、悲惨の
極みなり。星霜ここに三十幾余年、我等同胞慟
哭の海に向い霊安からん事を祈りここに碑を建
てり」と昭和58年設立の碑文にあります。
 当時のソ連海軍の記録から旧ソ連太平洋艦
隊、第一潜水艦隊所属のL19、L12の二隻の潜水
艦が留萌沖の海上で作戦行動をしていた事が判
明しており、当時、ソ連樺太に続いて北海道
北部を占領する為、狙撃二個師団を留萌へ上陸
させる計画を立てていたとのことです。
 最近のロシアの動きは北方四島問題解決を
益々困難にしており、昭和一桁世代の私は、そ
の碑文から受けた衝撃をその傍らに立つニシン
御殿の壮大さと共に、北海道旅行の忘れ得ない
記憶として改めて思い起こしました。