多々良山随想(その2)

      近 藤 宏 一

(前号に続く)
 佐波川を挟み田圃が多いので右田地区と呼ばれるのに対し、畑が多いので昔は畑地区と呼ばれ、人丸神社も以前は畑山神社と呼称されていたが、約220年ほど前に宮市前小路で大火のあと人丸神社と改称されたと言われています。

「賎が家の かきのもとまで 燃えきても高津といえば すぐに火とまる」の歌で有名な島根県益田・高津の柿本人麻呂を祀る人丸神社の分霊を宮市の人たちも一緒に歓請したものと言い、宮市の鬼門に当たる畑地区に火難除けのために祀られたと伝えられ、見晴
らしも良く、人麻麿が和歌の神様でもあるのである時期には短歌・俳句関係者の吟行なども多かったようで、神社境内には古い句碑や歌碑なども幾つかある。
 さて前号に書いた松ケ崎の2号〜3号にかけて、私の同級生・山根寛治君(迫戸在住)が天満宮境内の石造物という一文を写真入りで連載しているが、天神山にも「大峯山上大権現」の石碑があると写真入りで載っている。場所は天満
宮本殿と防長海軍忠魂碑とのほぼ中間で樹木に覆われ見えにくいが、あすなろRCC結成記念碑の
西側約50mの位置です。(鈴木宮司の許可を戴いたので、近々、周辺の整備を行う予定。)
 最近ある人から明治28年当時の地図を入手した。国分寺はあるが旧多々良高校も競輪場も無い時代の地図で、国分寺の右側から北へ進入し右に迂回し多々良山裾を通り畑に抜ける道が図
示されている(現在は天神山側を通っているが
)。
 私は渋谷会長時代に天満宮国分寺・毛利邸・阿弥陀寺を訪問例会で訪れましたが、これらが、それぞれ創建される前の近辺の里山はどういう状態だったのかとの想いが沸々と湧いてきます。例えば国庁があるから国分寺が出来た。その頃には天満宮はまだ無いのです。
 ある人によると天神山にはスサノオノミコトが祀られており、それが国分寺山・多々良山・雲岩寺山・敷山・矢筈岳から石槌山(真尾)まで修験道の道であったとの説なのです。真言宗密教修験道の路があったのではとの説を唱える
人もおられるので、一度国分寺の福山住職にこれらについてお伺いしてみたいと思っています。
 多々良山大峯山上大権現石碑は国分寺境内の大権現社と関係がありそうです。そして現実に天満宮本殿裏にはお宮・祠が四つあり、その一つは須賀社でスサノオノミコトが祭神と書かれています。鈴木宮司に伺うと、良くわかりませんが、天満宮創建前に領内にあったお宮を天満宮創建時に合祀したのでは…とのお話でした。
 明治維新以前は神仏混淆の時代でしたが明治維新以後廃仏毀釈が始まり、神道・仏教が共に信仰されていた明治以前のことを考えると、現存する石碑・鳥居などから祖先の残した信心の足跡が感じられ、信仰が薄れていく現在、残さ
れた遺物の伝承に何とか力を注ぎたいと新年にあたり思うのです。 (その後の経過は又の機会に…終)