多々良山随想(その1)

       近 藤 宏 一
 
 ここ数年、多々良山にある「大峯山上大権現」の石碑と鳥居のミステリーに執りつかれている。
 6年前「ほうふ日報」新年特輯号に掲載された「防府十八名山」なる増刊号に起因する。
 当時、パソコン教室の登山仲間で「山楽会」を結成したばかり。この会がこの十八名山なるものを年内に踏破しようということになり、初回は末田の茶臼山(大内氏滅亡地)と江泊山で、2回目が多々良山と真尾・松尾山だった。
 多々良山はリーダーが準備した登山地図を頼りに途中の荒道は一部ヤブコギもあったが、なんとか頂上に到着した。しかし見晴らしがあまり良くはない。ただ頂上から少し西北に降った処の平地で「大峯山上大権現」なる梵字入り大石碑に初めて遭遇したのである。帰宅後、登山地図を良く見ると石碑の西下方に鳥居のマーク
がある。
 当時、ユネスコの故・大田耕作氏が防府市内の道祖神の研究を終え記録誌を発刊。続いて市内の鳥居の探索に移る…と聞いていたので、私も多々良山の鳥居の探索に乗り出した。その後数次にわたる登山調査の結果、やっと鳥居が目
前に出現した。デジカメに画像を取込み、写真は後日、脇 正典ユネスコ会長にも渡した。
 鳥居があるということは、ここに参道があったのでは…との推測で尾根筋を幾つか登ったり降りたりし参道の逆探索に移った。GPSを持っている登山仲間を誘い、最終的に到達した処は新幹線のトンネルの上部だった。この付近には現
在山陽高速道や防府バイパスなど4本のトンネル
が貫通し、トンネルの北側は水道局の水源地や貯水タンク・テニスコート・サイクリングターミナルなどが開発整備され昔の面影は一切ない。
 話は変わるが昨年の2月、「松ケ崎」という松崎歴史同好会が毎年度発刊される小冊子の第14号を貰った。その中には毛利水軍関係の一文があり、記述者が縁戚の関係で贈られたのだが、その冊子の別の項目に「松崎地区の鳥居につい
て」の記事があり…多々良山に鳥居があると言うので登ってみたが鳥居は無かった…との記載があるではないか。
 私は松崎公民館に行き松ケ崎の1号から17号までのバックナンバーを全部買い求め読んでみたが、平成5年に脇 正典氏を顧問に故・大田耕作氏が立ち上られた松崎歴史同好会は松崎地区のみならず広く市内各地域からの会員も加入、防
府市のみならず県内各地の歴史研究にも深く拘わっておられることを知った。因みに第1号は脇顧問の兄部邸での記念講演の記載で始っている。
 そして第4号には山根節雄氏の防中同期・市川澄毅氏(上河原在住)の「人丸地区について」の一文と地区古老との座談会記事が掲載されている。
 人丸地区はある時代、一軒を除いて殆んどが藤井・清水姓で、菅原道真太宰府に流された時にお伴をした人たちの流れで、防府天満宮創建時、お宮の前・南側に住むのは恐れ多いと北側の畑地区に集団で移住したことから始り、御
神幸祭の大行事・小行事が人丸地区の藤井・清水両家関係者から現在も出ている謂れなどの記
載がある。 
    ………(以下次号に続く)………