「雑草からの教訓」

          羽 嶋 秀 一

 梅雨入り前のさわやかな季節。庭から遠くの
山に広がる緑のコントラストに感動をおぼえな
がら視線をふと足元に落すと、そこにはびっし
りと雑草の絨毯。この憎らしいほどの生命力の
かたまりにどれだけ多くの人が悩んでいるのだ
ろう。
 5月の連休明けのさわやかな日曜日に、山口県
の米どころ阿東町を車で走った。水を張った田
んぼの水面に近くの山々が映る。家庭の庭では
味わえない美しい風景の中に畦の草刈をする農
夫の姿があるとことに気付いたまさにその瞬
間、この美しい景色は連なり合う田んぼの畦草
がきれいに刈り揃えてあるからこその絶景であ
ることを思い知らされた。
 農夫がどのような思いで草刈機を操っていた
かはさておき、その姿も景色の構成要員として
は美しい。
 もしかして、雑草との果て無き戦いが、日本
の美しさの原点?
 「庭の草取り」「空き地の草刈」この重労働
に対する心がけこそが、今まで気づかなかった
美しさへのこだわりなのかもしれない。
 造園家として庭を大事にする心構え、農家が
田んぼを大事にする気持ち、この心を忘れなけ
れば日本の美しい風景は永遠であろう。
 ただ今日も草取りで足腰が痛いと母の愚痴を
聞かぬそぶりの私である。雑草魂は常に心がけ
ているが、雑草からの教訓も再考していきた
い。