江戸時代における防府関連の著名人

              脇  正 典
山県周南(1687〜1751)小野鈴屋の生まれ。父山
県良斉が萩藩主吉広の侍講となり、萩へ移
住。19歳の時、江戸へ行き荻生徂徠に師事。
名声を得、萩へ帰った。藩主吉元の侍講とな
り、藩校明倫館の創設に関わった。明倫館と
いう名所を定め、二代目祭酒(校長)となっ
た。正徳年には赤間関朝鮮通信使を応接し
た。詩文を交換し海西無双と謳われた。
滝 鶴台(1709〜1773)萩の引頭家の生まれ、藩
医滝養正の養子となる。明倫館に学び、その
博識を賞賛され山県周南の推薦で右田毛利家
の郷学時観園教授となった。後江戸へ赴き、
徂徠の弟子服部南郭に師事した。帰郷し時観
園督学(校長)となった。萩藩主毛利重就に請
われ侍講となり、藩士に昇格した。鶴台の妻
は、戦前の修身の教科書に、赤玉・白玉の話
しで有名で、右田唐臼に大きな石碑が建てら
れている。
南部伯民(1770〜1823)三田尻松小路に住み、
その住まいを積善堂と号した。大阪で蘭方を
学び、京では儒学を皆川其園に師事した。そ
の医術を請われ、清末毛利家に奉職した。
1818年に清末藩主と江戸へ赴き、白河楽翁(
寛政の改革を行った松平定信)にその医術を賞
賛され、名声を高めた。帰途京都では頼山陽
と交友を深めた。老松小路に南部伯民の大き
な石碑があったが、今は不明である。
上田少蔵(1757〜1838)堂山と号した。台道の豪
農。庄屋、木綿の栽培、酒造業、開作事業と
地域の為に貢献した。後に宮内庁文学御用係
となる近藤芳樹の学業を援助し、孝女お石を
称揚し石碑を建てた。風雅を好み多くの文化
人と交遊した。頼山陽大田南畝等を佐野垰
へ案内し、佐野垰からの景色を山陽随一と賞
賛させ、佐野嶺文学と称された。
(参考文献『続防府市史』)