大義ある「超我の奉仕」     廣政 寛

 今から思うと、60年前、私は国民学校の5年生
だった。
 昭和20年の前半は殆んど学業らしきものはなく、
ただただ一途に勤労奉仕に明け暮れていた。
 大平山の中腹まで登って、雑木2〜3本を背負
子(しょいこ)に背負って学校の裏庭へ積み上げた。
業者がそれを炭焼きして燃料の足しにしたらしい。
 今でこそ、自分の意志に関係無しに強制的に
かり出された印象があるかも知れないが、当時
は「米英必滅」「勝つまでは欲しがりません」
という大義があって子供心にもお国のため、天
皇陛下のため一意献身に何の迷いも無かった。
 現在の奉仕活動と違うのはそれが自発的奉仕
であったかどうかだろう。
 昭和20年8月15日終戦を境にして我々にすり込
まれた価値観は180度転換した。しかし、自発的
サーブであろうと強制的サーブであろうと奉仕
には大義が必要だ。
 
 究極の奉仕だった武士道にも、特攻隊にも大
義がなければ行為そのものが成り立たない。
 今、想うに日本人の滅私奉公なるものが戦後
60年、私達の心のトラウマとなってそれ以上は
踏み出せないのではないだろうか。全体主義
な教義に引きづられて行くことに極度に神経質
になっているかも知れない。
 最近、教育改革国民会議の委員でもある作家
曾野綾子さんは子供たちに奉仕活動を義務づ
けることをかなり強力に提唱されている。しかし、
これはほとんどの知識人から反対があって接点
が見いだせない。
 だが、すべての教育的行為の初めは強制的で
ある。「おはよう」や「ありがとう」という心の
行儀を子供につけるのも強制しなければ自発的
に生まれるものではない。
 ウィ・サーブは半ば強制されるものと意識し
たことはなかったとしても、「超我の奉仕」を
ただ自発的行為にゆだねるのでは何も生まれな
いということを内心考えているロータリアンは
案外多いかもしれない。