平 和 の 礎        藤 津 宗 久          

      
 今、広島から帰宅した。人権研修の一環として、
広島の平和記念公園にお詣りし、原爆被爆体験
者からお話しを伺った。
 昨日の14時にまず平和記念公園に献花を捧げ、
平和記念資料館の一室で、被爆体験証言者
奥田 榮先生よりお話しをいただいた。
 最初に、昭和20年8月6日の被爆直前の様子を
説明してもらった。近くに3階建ての医院があり
祖母を病院に連れて行き薬ができるまで時間が
あったので自宅にもどりお兄さんの直前1メート
ルで急に光と共に爆裂音が起こり、気が付いた
ときには、上半身はだかになり道を歩いていた
そうである。廻りは、真っ暗で放射線の霧の中
であったそうである。爆心地から約1Kメートル
のところにお宅はあったそうだ。
 その時、少し年上のお姉さんが速く、海の方
へ逃げなければ死んでしまうと言って手を取り
南の舟入橋の方へ連れて行かれたそうである。
幸いにも、水道管が破裂し流れていたのでお姉
さんが煤だらけの上半身を洗ってくれ、水を飲
ませ、また、吐き出させてくれたそうである。
 今、思えば、この時の処置が良かったそうです。
放射能を洗い流し、内臓の中の放射能も出して
しまったのだろうということでした。
 しばらくして、救護の人が集まってきたが、
みんな、新型爆弾のことは知らず、爆心地の方
へ入っていったのである。「死の灰」の中へと
である。

 残念ながら、奥田さんの家族は、みんな、
原爆の犠牲に成ってしまったそうである。1メー
トル前にいた兄は家の下敷きになり、祖母も病
院の下敷きになり亡くなられた。軍人であった
父上は爆心地に入り昭和21年の3月に急に亡くな
られた。成人まで育ててくれた、実姉もやはり、
45歳で亡くなられたそうだ。ご本人も、60過ぎ
てから原爆の被爆症に悩まされているそうです。
 奥田さんは、その手を引っ張ってくれたお姉
さんを捜しているそうだが、名前も住所も解ら
ないので、消息が解らないのが残念でたまらな
いそうである。
 1986年には、故ヨハネ・パウロ〓世が、平和
アピール碑を、また、峠三吉という人が詩碑(ひ
らがなの詩)を建立されています。