尾瀬と「夏の思い出」

            原  俊 雄
 
 或る朝早く、夢うつつに聴こえて来た『夏の
思い出』の歌で目覚めました。尾瀬を歌った中
田喜直の名曲です。そしてボニージャックスの
甘い歌声と絶妙のアンサンブルに、まだ行った
事もない尾瀬の風景を想い浮かべていました。
尾瀬は是非行ってみたい所だったのです。
 『夏の思い出』は若き作曲家、中田喜直が芸大
一年先輩の「憧れの人」石井好子に捧げた曲で
最初に唄ったのも彼女だそうですからその想い
江間章子の詩と相まって抒情的な美しい曲に
なり、この歌で尾瀬が一躍有名になったのも頷
けます。
 石井好子シャンソンは余り聴いた事がなく
彼女の『夏の思い出』も聴いていませんが、朝
のまどろみで聴いたボニージャックスは尾瀬
の思いを募らせ、とうとう尾瀬に行く事にしま
した。
 行程は奥会津から入り、沼山峠(標高1,784m)
から尾瀬沼を通って尾瀬ケ原(1,400m)を縦断し
鳩山峠(1,600m)から下山する23kmのコースです。
 6月はじめの針葉樹林帯の木道はまだ解けきら
ぬ雪で滑りやすく、木道脇の雪穴に落ちぬよう
用心しながら4〜50分も林間を歩くと、はるか下
方に湿原と水芭蕉の群落が見え出す。大江湿原
です。更に尾瀬沼北岸を沼尻まで歩き遅い昼食
を摂る。ここから残雪や雪解け水の白砂峠を難
渋しながら越え、燧ヶ岳の新緑の樹林帯を抜け、
ようやく夕刻に痛い足を引きずり尾瀬小屋に着
きました。
 翌朝、山小屋の朝は早く4時過ぎに目覚めると
外は一面、霧に包まれていました。冷ややかな
霧の中の木道を歩く。朝霧の中の散歩を楽しん
でいる人影が霧の中に現れ、おぼろな木々の輪
郭が次第に浮かんでくる。木道脇の水芭蕉や草
花はしっとりと濡れ『夏の思い出』の歌そのま
まの情景です。
 やがて後ろの燧ヶ岳から陽が射すと遠く至仏
山の残雪を照らす。郭公の声がこだまする。し
ばし夢のようなドラマのひと時です。
 尾瀬小屋出発は7時半、朝霧の素晴らしい情景
を瞼に焼き付け、尾瀬ケ原の水芭蕉や名も知ら
ぬ草花の中の木道を追い抜きもままならぬ混雑
のハイカーに混じってひたすら歩き、竜宮、牛
首を経て至仏山登山口の山の鼻で小休止。ここ
から鳩待峠まで3.3km。ひと汗かけばゴールです。
2日目は平坦な木道が多かったので、お昼前には
多数のバスが待つ鳩待峠に着き尾瀬を後にしま
した。
…夏が来れば 思い出す 遥かな尾瀬 遠い空
 霧の中に浮かび来る 優しい影 野の小道
 水芭蕉の 花が 咲いている
夢見て咲いている 水のほとり
 石楠花色に黄昏れる 遥かな尾瀬 遠い空…