「喫茶去(お茶でも召し上がれ)」

          弘 中 貴 之

 以前研修で、宗派を超えた仏教者の集いであ
る「南無の会」元会長の松原泰道さんのお話し
を聞く機会がありました。松原さんは、岐阜県
瑞龍寺で修行された後、臨済宗妙心寺派教学
部長を務められた方で、1972年に出版された
「般若心経入門」は記録的ベストセラーとな
り、第一次仏教書ブームのきっかけを作った方
でもあります。その時のお話しが「喫茶去(お
茶でも召し上がれ)」という講題でした。その
内容をこの度は御紹介したいと思います。
 中国は唐の時代、禅僧・趙州(じょうしゅ
う)和尚のもとに、一人の修行僧が教えを請い
にやって来ました。趙州和尚が、「あなたはこ
こへ初めて来たのか?」と問うと、僧は、「は
い、初めてまいりました」と答えました。する
と趙州和尚はこう言ったのです。「喫茶去(き
っさこ)」……(お茶でも召し上がれ)。また
ある日、趙州和尚は別の訪問僧にも同じことを
尋ねました。その僧は、「いえ、以前にも伺っ
たことがあります」と答えましたが、趙州和尚
は同様に勧めます。「喫茶去」。このやり取り
を見て、不思議に思った寺の住職が趙州和尚に
尋ねます。「老師は、初めて来た人にも、以前
来たことがある人にも、同じに『喫茶去』と言
われました。これはどういうわけですか?」す
ると趙州和尚はまたしても、「喫茶去」と答え
たのでした。
 禅の思想は極めて象徴的で、言句(文字や言
葉)を表面的に捉えると解釈を誤ります。「喫
茶去」というからお茶にとらわれてしまいます
が、趙州和尚は、ここへ初めて来たのか、以前
ここへ来たことがあるのかと、未来でも過去で
もない、「いま、ここ」を問題にしているので
す。「いま、ここでお茶を召し上がれ」と。お
茶を飲むということは、日常のありふれた行為
です。しかしその日常の行為が、実は禅そのも
のなのです。お茶を飲むことだけではありませ
ん。ご飯を食べること、衣服を着ること、そう
した日常のすべてがそのまま禅なのです。
 多忙な現代人は、食事もお茶も、他のことを
しながらいただいて「ながら族」になりがちで
す。しかし、何事も「ながら族」ではいけませ
ん。お茶を飲む時はお茶を飲むことだけに徹す
る。ご飯を食べる時も、衣服を着る時も、ただ
そのこと一つに徹してすることによって、人生
の受け止め方も違ってくる。「喫茶去」とは、
そのことを説いているのです。
 自分は回り道をしているとか、自分の本当の
仕事は別にあるとか、何事も一時の腰掛けのつ
もりで手を抜いてやっていると、必ず悔いが残
ります。しかし、どんな仕事であれ、その時に
全力を尽くしてやったことは、後で必ずプラス
になって返ってくるものです。全力を尽くして
取り組んでいる限り人生に無駄はない。それは
人生において、とても大切なことです。