「村八分」と「腹八分」

           光 谷  博

 昨年山口県で「村八分」という昔懐かしい言
葉の事件が有り、かつて村という人間の集落で
何か悪事をしでかして村の人たちから爪はじき
にされている“悪い奴”に対しても、村人は二
つの事だけはつき合いを許した、という意味を
簡潔に表した言葉である。この二つとは、火事
と葬式。
 最近の中学生による“凶悪なナイフ事件”の
頻発で久し振りにこの言葉を思い出したのだ
が、今の日本、特に若者の著しい性向の一つを
無責任にいってしまえば「村十分」ということ
になるのではなかろうか。つまり「二分」とい
えども許さないという一面が強いような気がす
るのだが…。
 日本の社会がそんな風潮になってしまった大
きな原因は、豊かすぎることによるのではない
かと思われる。そのために「抑制」という人生
にとって大切な二字が死語化した傾向はないだ
ろうか…。
 「抑制」に似た言葉に「腹八分」がある。何
事もほどほどにというくらいの意味だが、豊か
すぎることに埋没してしまわないための生活の
知恵として「何事も腹八分が肝心」という言葉
がある。
 私は長い生活経験から、その八分が至るとこ
ろに当てはまると思う。
 まず、体力はいつも八分で抑えておいて、健
康を保つことができる。
 精神もそうだと思う。八分だけ使って余裕が
あれば、精神衛生からいっても良いと思う。
 物欲も、自分の欲しいものを八分にとめてお
くように心掛ければ、無理をしないと思う。
 お小遣いも、持ち合わせを全部はたくより、
八分でとめておくと心強い。
 相手に腹が立つ時も、八分ぐらいまで怒り、
後の二分を相手に譲る気持ちがほしい。
 過ちをしかる時も、八分でしかり、後の二分
は過ちを犯した者への情けとしたい。
 逆に同情もまた同じに、二分だけは同情しな
い面を持ちたい。信用、人間は信用しあわない
と生活できない。大切なことであるが、二分だ
けは疑いを持ちたい。
 逆に疑いの中にも、また二分の信用の面もあ
ると思う。
 お世辞にも八分のうそがある。しかし、二分
の誠もある。
 自分の心も、いつも人に八分だけ見せ、二分
は見せない方がよいと思う。親切にも八分にと
め、自分で甘えるのも八分までと思う。