防府は、水路で発展した街だ

          友 景 昭 隆

 自転車を乗るようになり、市内をあちらこち
ら走ると、意外な事に気づく。
 私は徳地出身であるから、防府はそれなりに
町だと思っていた。つまり文化が先にある町だ
と思っていた。
 水路沿いにあちらこちらと走り回ると見えて
くるものがある。
 桑山から西の方自衛隊の間は、巨大な田園地
帯である。通常、道に挟まれているので、気が
つかなかったが、道から外れると一気に田園の
中に入ってしまう。
 多くの水路があちらこちらを走り、それに合
わせて、古い町が形成され、この街が出来たのが、
よくわかる。
 最初に佐波川の治水があり、水路の形成と共
に肥沃な地になり、その後に、天神から三田尻
の町が形成され、海の関係も含めて、発展する
条件を満たしていたのだろうと思う。
 水路上に天神町が形成され、町が三田尻に伸び、
こうした川に沿う形に線路が引かれこれほどの
水路が街中で発展しているのは珍しいとも感じる。
 しかし、走ってみると、あれっ? と思う所は、
水路を無視した道路が近代になって出来ており、
そのギャップが文化を抑えてきたのだなと、違
和感を覚えるのも、また防府の特徴である。
 この水路は、佐波川が氾濫して肥沃な土を防
府に持ってきた後だから、紀元後数百年には形
成されたと考える。その肥沃な土地は、多くの
力を呼び、国府になってきたのだろう。
 宮市や三田尻は、まだまだだし、車塚古墳(車
塚古墳が6世紀)もまだ出来てない時代のはずだ
と走りながら感じる。特に歴史には詳しくないが、
瀬戸内の海街道ぞいでありながら、肥沃であり、
朝鮮との外交には欠かせない場所であることも、
よく見えてくる。
 いろんな天皇家の方々が、この地に足跡を残
しているのは、こうした理由なのだろうか?
 水運の発達したベネチアとは違うが、農業水
路の肥沃な地は、権力の力であり、当時の防府
の地が、日本の重要な場所であったと感じながら、
走ってみるのもまた一興である。